六十余州 武家屋敷紀行

~隔月で第3土曜日に更新~

vol.89 【陸奥国 会津藩】西郷頼母邸

【居住者】西郷頼母(家老/1,700石)

【所在地】福島県会津若松市東山町大字石山字院内一番地

【関連サイト】http://bukeyashiki.com/

 

 九州旅行を予定していたタイミングで第7波のコロナ急拡大。行動制限はないものの、何となく遠出の旅行はNGな雰囲気も出始めていたため断念し、代わりに日帰り短時間で会津に行ってきました。昼過ぎに会津若松駅到着。ご当地名物という会津山塩ラーメンで腹ごしらえした後、レンタサイクルを借りていざ出発。

 まずは今回の一番の目的である会津武家屋敷へ。会津の歴史にスポットを当てたテーマパークのようなところで、園内に会津藩家老西郷頼母の屋敷が復元されています。千石を超えるような大身ともなると、屋敷全体の現存例はほぼなく、大変貴重な存在。ゼロから大規模な武家屋敷を全面的に再現して維持管理していくことは、行政では税金の使い道の賛否も分かれそうで復元事例も聞きませんが、ここは民間の手によるもの。武家屋敷好きには大変有難いことです。

 夏空に映えるような白亜の長屋沿いに緩やかな坂を上がっていくと、堂々たる四脚門。その先には風格ある玄関、そして表奥の建築群が展開。武家屋敷遺構は全国に数あれど、これだけの規模ともなるとなかなか見られない光景です。細部にわたって実にこだわりを感じますが、「自刃の間」は西郷家の悲劇的な一面にも気付かされます。戊辰戦争で四方から新政府軍が迫る中、あるじの頼母と長男の吉十郎が城に向かった西郷邸では、残った母、妻、5人の娘など一族21人が足手まといになるまいと壮絶な自刃。白虎隊とともに語り継がれる有名な悲話です。

 園内に掲げられた説明には「藩家老の鳥瞰図を発見したのが契機となり、この復元計画が具体化した」とあって、「厳密な時代考証の下、信州高遠に現存する武家屋敷の遺構を勘案しつつ、綿密な設計と慎重な作業とによって竣工」と続きます。信州高遠は藩祖保科正之の旧縁地ゆえということでしょうが、現存する武家屋敷とは藩校進徳館のことなのか(たしかに似た感じもある)。もしかすると、必ずしも間取りなどは旧状通りではないのかもしれません。しかし模擬建築のような安っぽさは微塵もなく、実は今回3度目ながら随分見入ってしまい、滞在時間の大半を費やしてしまいました。園内には旗本の代官陣屋もあり、次回ご紹介したいと思います。

(2022年7月訪問)

 

 

表門に続く海鼠壁の長屋。気持ちが昂ってきます。

 

表門の先に表玄関。家老屋敷の風格を感じさせます。

 

式台の先にある玄関の間は12畳という広さ。

 

展示されていた絵図。かなり忠実に復元されているようですが、この絵図については全体像や出所など、もう少し情報を得たいところです。

 

表玄関左手の部分には、右から役人所(家臣の事務室)、中の口玄関(家臣の出入口)、供待(客人の従者の待合室)と、細かい部分の再現もこだわっています。

 

奥玄関。家族用の玄関は簡素なことが多いですが、さすが御家老。立派です。玄関右手は料理の間、左手は女中部屋。

 

邸内の掲示されていた屋敷図面。やはり広いです。

 

御成の間には藩主松平容保(奥)と迎える西郷頼母(手前)。

 

奥向から望む御成の間の建物(左側)。御成の間は奥側で、手前側は茶室があります。

 

御成の間の建物側から向いの建物を望む。左手は客待の間や表居間などのオフィシャルなエリア。右手は家族が生活したプライベートエリアになっています。

 

当主の執務室として使われた表居間。

 

表居間の手前は応接間として使われた客待の間。廊下も広いです。

 

仏間の(左手)の手前は西郷一族の悲劇を象徴する「自刃の間」。

 

西郷邸の外郭に構える長屋。この広大な邸宅で暮らした西郷頼母も、最後は旧宅地に近い長屋で亡くなった由。時代というものの切なさを感じます。

 

長屋内部の家臣の住居。