六十余州 武家屋敷紀行

~隔月で第3土曜日に更新~

vol.112 【武蔵国】勝海舟屋敷門

【所在地】東京都練馬区石神井台1-15-6

 

 石神井公園に行ってきました。お目当ては少年時代に訪れて以来の勝海舟屋敷門。赤坂の勝邸にあった長屋門が、三宝寺というお寺に移築され現存しています。最近になって『海舟座談』に「この家は五千石の旗本の家だが」という海舟の回想文を見つけ、かの門が赤坂にあった5,500石の旗本柴田家のものと推測され、興味が湧いたのです。

 三宝寺は石神井公園のそばにあり、駅からすぐかと思いきや、公園がかなり広いので、お寺を探し当て辿りつくまで30分くらいかかりました。ネットやスマホもない時代に、中学生だった自分は一人でよく行ってこれたなと我ながら感心します。当時の写真を見るに大きな変化はないようで(手前に設置された屋根付き駐車場が景観を遮ってしまっているのは残念)、貫禄のある重厚な構え。5千石クラスの大身旗本の屋敷門だったのかと、思わず見入ってしまいました。

 その後、『旗本柴田家屋敷跡・勝安房邸跡発掘調査報告書』(港区教育委員会)という20年ほど前の発掘調査の報告書を見つけて読んでみたのですが、それによれば、たしかに勝海舟は明治5年(1872)に柴田家から屋敷を譲渡されて自邸としています。柴田家は三河以来の直参。由緒ある家柄でありながら、武士の時代が終わると経済的に没落してしまったようです。海舟が亡くなってからも、しばらくは勝伯爵邸として使われた後に、氷川小学校建設のため建物は解体され敷地は譲渡されていますが、この時に門が移設され最終的に三宝寺に移ったことも報告書に書いてありました。

 しかしひとつ気になるのは、報告書に掲載の屋敷図面。正面に長屋はあるものの、正門は長屋門でなく長屋を脇にして独立した開き戸の門のようなのです。これをどう考えたらよいか。江戸時代からの長屋門が残っていたものの、明治になって新たに正門を拵えた、ということもあるかもしれません。いずれにしても、旗本八万騎の時代には無数にあったはずの長屋門がすっかり姿を消してしまった現在、勝海舟屋敷門は唯一の遺構かもしれないわけで(読者の方に教えていただいたブログvol.81の長屋門も今はなく)、この長屋門の変遷がもう少し明らかになるとよいなと思います。

(2026年6月訪問)

 

 


三宝寺の境内に移築された勝海舟屋敷門。武家屋敷の風格は十分に感じます。

 

調査報告書によれば、佐久間象山から海舟に贈られたという「海舟書屋」という額が勝邸の書斎に掛けられていたようで、江戸東京博物館に残っているとのことですが、長屋門正面に掲げられたこの額は、それを模したものではないかと思います。

 

かつての居住者の柴田家は、『寛政重修諸家譜』によると代々「七九郎」を名乗っていますが、先祖の柴田康忠が弓の達人で敵陣に放った矢が63本、それに因んで7×9= 63で七九郎。冗談みたいな話ですが、武勇を称えた徳川家康により「六十三の字を旗の紋となし、其名を七九郎とめさる。これは七九は六十三の数にあたればなり」と記録されています。

 


門の裏側。調査報告書に掲載されている屋敷図面の長屋であるならば、当時は横幅がもっと長かったかもしれません。

 


長屋門脇にあった説明。あまり目立たず、勝海舟ゆかりの建物ということが、傍目には認識されにくいかもしれません。赤坂から兎月園を経て当地に移されています。