六十余州 武家屋敷紀行

~隔月で第3土曜日に更新~

vol.78 【肥前国 佐賀藩】大隈邸(大隈重信旧宅)

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【居住者】大隈八太郎(300石)
【所在地】佐賀県佐賀市水ヶ江2-11-11
【関連サイト】https://www.okuma-museum.jp/

 

 コロナ禍直前の今年1月、旅行で佐賀を訪れました。佐賀藩35万石鍋島氏の城下町には、武家屋敷の面影も残っており、なかでも大隈重信の生家(国指定史跡)は平成28年(2018)に大規模な保存修理工事を終え、佐賀藩士の暮らしぶりをよく伝えています。

 学生の頃にも来たことがありますが、改修後とあって綺麗に整備された印象です。パンフレットによれば250年ほど前の建築だそうですが、『史跡大隈重信旧宅保存修理工事報告書』(佐賀市)によれば、玄関式台と屋敷縁は昭和43年(1968)の解体移築修理の際に当初の形式に復元したとのこと。また土間・茶の間・納戸の部分は、管理人居住のため大正8年(1918)に近隣民家の古材で改築したものだそうです。屋内に入れないのが残念ですが、毎月5の付く日には重信の勉強部屋が特別公開されているとのことです。

 天保3年(1832)に祖父が購入したこの屋敷で、重信は同9年(1838)に誕生。父は石火矢方頭人という砲術隊長の役職にあり、長崎警備にも出向いていたようですが、重信が13歳のときに急死。当時八太郎を名乗っていた少年時代、重信は母と弟の3人家族(2人の姉は既婚)で暮らしていたようです。慶応3年(1867)の分限帳(『肥前鍋島家分限帳』所収の「惣番秩禄」)には、「大隈八太郎 物成百弐拾石」とあります。佐賀藩では実収ベースの物成高の表記が一般的で、四公六民の知行高に換算すると300石の家禄であったようです。

 『大隈重信自叙伝』によれば、八太郎少年は、ご本人いわく「餓鬼大将の発達した様な傾向」があり、「友人が盛んに遊びに来るので、我輩の宅は今の倶楽部の如きものであった」そうですが、母の三井子は「友人が訪ねて来るのを非常に喜んで、手料理を拵え、あるいは団子を造り、あるいは牡丹餅または柏餅などを拵えて御馳走してくれた」と述懐しています。重信いわく「慈愛深き母」。この屋敷で母の愛情のもと育まれた社交性も、後に一国の総理にまで昇り詰めた原動力となったのかもしれません。

(2020年1月訪問) 

 

f:id:kan-emon1575:20200110145035j:plain建物全景。管理人居住のため改築されていた手前部分は、かまどや流しを推定復元して往時の台所を再現しています。

 

f:id:kan-emon1575:20200110143948j:plain説明板に見る間取り図。敷地314坪、建坪55坪。

 

f:id:kan-emon1575:20200110144322j:plain復元された玄関。式台を上がると3畳の玄関の間。その奥には8畳の居間。右手は3畳の控の間を挟んで座敷、左手は6畳の納戸。

 

f:id:kan-emon1575:20200110144037j:plain玄関横の12畳の座敷。その先は 8畳の次の間。

 

f:id:kan-emon1575:20200110144438j:plain次の間の縁側部分。右隣の部屋(板の間)上部の2階は、藩校に入学した八太郎少年のために母が増築した9畳の勉強部屋。