六十余州 武家屋敷紀行

~隔月で第3土曜日に更新~

vol.67 【日向国 飫肥藩】伊東家中の武家屋敷

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【所在地】宮崎県日南市飫肥

【関連サイト】

http://obijyo.com/shisetsu/itoudenzaemon/

 

 昭和52年(1977)に九州で初めて(全国で2番目)「重要伝統的建造物群保存地区」に選定された飫肥には、武家屋敷の面影が随所に見られます。前回の豫章館から飫肥城大手門前を右に曲がると「横馬場通り」。武家屋敷の石垣が続く一本道は、電柱も電線もなく良い雰囲気。このあたりの屋敷規模は一戸平均900坪ほどあったそうです。

 横馬場通りの先を左に曲がると伊東伝左衛門邸(日南市指定文化財)。入口の解説には「家老の分家」とありますが、藩主と同族筋である家老伊東家(400石)の家譜書「藤枝伝」を読んでみると、享保6年(1721)に家老伊東大蔵丞祐興の弟である内蔵助祐允が新知100石と屋敷を拝領した経緯が記録されていました(幕末の家禄は150石)。『近世飫肥史稿』という本には、天保2年(1831)に設立された頃の藩校振徳堂の職員一覧に、伊東伝左衛門(主事)の名がありました。

 小鹿倉(こがくら)邸も、貫録のあるお屋敷。伝統的建造物の保存条例施行時、「保存するため特に必要な物件」として、「小鹿倉主屋七棟と一基」が挙げられていたようです(『日南市史』)。3年前に寄贈を受けた日南市は民間に活用を募集していますが、その募集関連資料によれば、小鹿倉家は代々藩医。建物の一部に飫肥城の小書院が再利用されているとのことで、歴史的価値は高そうです。募集に応じた会社により、来年3月に宿泊施設としてリノベーションされる予定とのこと。武家屋敷の生活を疑似体験できそうで、是非泊まってみたいものです。

 県指定名勝の庭園が残る勝目邸、中級家臣の長屋だったという合屋邸は、貸切型の高級古民家宿泊施設「季楽 飫肥」として既に昨年オープン。また今年は別の伊東姓のお屋敷が、カフェレストランに生まれ変わり営業開始(「武家屋敷伊東邸 おび茶寮」)。私もランチをいただいてきました。保存維持の費用負担が大きい武家屋敷を可能な限り後世に残すためには、こういった活用の仕方もひとつかもしれません。願わくば旧状通りのままであってほしいですが。

(2018年7月訪問)

【ご参考】
http://www.nichinan.tv/2017/11/14/kogakura-houkoku/
http://crea.bunshun.jp/articles/-/13396
http://www.nichinan.tv/2018/04/21/itoutei-koukai/

 

f:id:kan-emon1575:20180720111601j:plain伊東伝左衛門邸の玄関。床が高いです。

 

f:id:kan-emon1575:20180720111643j:plain玄関横の表座敷。屋敷は19世紀初頭の建築と推定され、飫肥杉が使われています。

 

f:id:kan-emon1575:20180720111935j:plain手前部分は土間。上部の屋根は元は茅葺だったそうです。

 

f:id:kan-emon1575:20180720111035j:plain横馬場通りの伊東民部屋敷門。空き家と思しき建物も古そうですが立入禁止。伊東姓だけに藩主の一族、あるいは賜り姓の重臣かと思いますが、詳しいことはわかりません。

 

f:id:kan-emon1575:20180720111339j:plain飫肥城大手門へ続く横馬場通り。武家屋敷の石垣が往時を偲ばせます。

 f:id:kan-emon1575:20180720121549j:plain小鹿倉邸。分限帳に同姓の藩士は見あたらず、どの程度の家禄の屋敷か分かりませんが、幕末の地図では川崎喜右衛門の屋敷地。 藩主の居所を豫章館に移した際の御殿建築の払下げという経緯を考えると、邸宅としては版籍奉還後の建築であるのかもしれません。

 

f:id:kan-emon1575:20180720103028j:plain武家屋敷をリノベーションした「武家屋敷伊東邸 おび茶寮」。

 

f:id:kan-emon1575:20180720121904j:plain合屋邸。こちらは宿泊施設としてリノベーション。かつての長屋門でしょうか。

 

f:id:kan-emon1575:20180720101714j:plain勝目氏庭園。こちらも宿泊施設に。かつては藩医の屋敷だったようです。