六十余州 武家屋敷紀行

~隔月で第3土曜日に更新~

vol.68 【信濃国 高島藩】諏訪家中の武家屋敷

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 【志賀邸】(諏訪市有形文化財
居住者:志賀初右衛門(勘定奉行/100石)
所在地:長野県諏訪市高島1丁目
https://www.82bunka.or.jp/bunkazai/detail.php?no=5086

 【渡辺邸】(長野県宝)
居住者:渡辺斧蔵(大納戸/18俵2人扶持)
所在地:同岡谷市長地柴宮3-8-40
http://www.kanko-okaya.jp/enjoy/museum/旧渡辺家住宅/ 

 

 特急あずさに乗って信州の城下町を訪ねてきました。まず上諏訪で下車して諏訪高島城を見学。その後、本丸土戸門跡のほど近くにある志賀家住宅へ。城下で唯一現存している武家屋敷で、建築は安政2年(1855)。いささか廃屋のような感じでしたが、長屋門や式台玄関を構える主屋など、当時の形状は残しているので、整備すれば観光資源としての期待が持てそうな気もします。

 岡谷で一泊して翌日は渡辺家住宅へ。お城からは5キロほども離れた在郷藩士の屋敷。18世紀中頃の建築と推定されています。家格や家禄では志賀家より格下になりますが、建物の整備が行き届いていて、こちらの方が見栄えは立派でした。下級武士の家ながら、明治維新後、この家からは、渡辺千秋宮内大臣)、 渡辺国武(大蔵大臣)、渡辺千冬(司法大臣)という3人の大臣を輩出しています。スタッフの方にいろいろと説明をしていただき、さらに近くの郷土学習館にも案内していただき、とても勉強になりました。

 新田次郎さん(上諏訪出身)の小説「諏訪二の丸騒動」を読んで、3万石という小さな高島藩にも随分と深刻な御家騒動があったものだと思いましたが、諏訪大助のような名門筋の家老であっても失脚すれば命をも落とし、一方で渡辺家のような下級武士であっても一国の大臣にまで昇り詰める。いつの時代にも人の人生というのは様々だなと、何か考えさせられたような気がしました。

(2018年10月訪問)

 

f:id:kan-emon1575:20181006160404j:plain志賀邸の長屋門。かなり傷んでいますが、往時のイメージは想像できます。高島城の資料室に展示されていた「慶応四年高島城下町図」には、この位置に「志賀初右衛門」の名があります。

 

f:id:kan-emon1575:20181006155915j:plain長屋門奥の玄関。内部は非公開ですが、6~10畳の部屋が6つほどあるようです。

 

f:id:kan-emon1575:20181006160249j:plain主屋全景。右手は台所。左手方向には蔵も残っています。『諏訪史料叢書』所収の分限帳によれば家禄は100石。二の丸騒動では千野兵庫派にあった志賀七右衛門家(300石)の分家のようです。

 

f:id:kan-emon1575:20181007114713j:plain渡辺邸の玄関部分。幕末の当主斧蔵は岡谷市観光協会のサイトによると18俵2人扶持の「郡方下役外様御徒士」。『諏訪史料叢書』所収の分限帳には「大納戸」とも。

 

f:id:kan-emon1575:20181007114341j:plain玄関の内側には、式台を構えています。

 

f:id:kan-emon1575:20181007114042j:plain斧蔵は絵心があったようで、座敷に自作の絵が展示されていました。江戸詰の時に習ったのだそうです。

 

f:id:kan-emon1575:20181007114807j:plain武家屋敷というよりは、秋の農村を思わせる風景。