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島原の旧徒士屋敷区域には、前回の山本邸のほか、篠塚邸(上部写真)と鳥田邸が一般公開されています。このあたりは1戸90坪ずつに区切られ、各家庭では枇杷、柿、柑橘類を栽培していたそうです。
篠塚家は代々8石~13石2人扶持で郡方祐筆や代官を務めています。山本邸と比べ、やや手狭で玄関構造なども簡素ですが、山本家は藩公直々に許された長屋門を構える砲術師範の家柄。むしろ篠塚邸や鳥田邸の方が、徒士屋敷の体裁としては一般的だったのではないかと思います。
鳥田家は7石2人扶持。建物は一段とつつましい印象ですが、それでも御目見独礼格、つまり単独で藩主に拝謁できる格式だったようで、材木奉行、宗門方加役、船津往来番等を務めています。深溝松平家が三河にあった頃から仕える古参の家来ですが、三河武士を先祖にもつ家は多く、家臣団には独特のなまりがあったそうです。
ちなみに筆頭家老の板倉八右衛門(2千石)も三河以来の重臣ですが、島原の乱で幕府軍を指揮した板倉重昌は同族。重昌は劣勢のなかで眉間に銃弾を受け戦死しており、深溝松平家の島原転封は、御家老にとって複雑な思いもあったかもしれません。
(2015年2月訪問)
篠塚邸の「男座」と呼ばれる一室。当主居間ということでしょうか。篠塚家の当主は、代々順右衛門を称していたそうです。
鳥田邸。左手の入口を入って、土間の右手から室内にあがる玄関の構造は篠塚邸と同じ。各戸の建坪は25坪ほどだったそうです。
鳥田家の食事風景。3つの武家屋敷では人形で当時の雰囲気を演出していました。