六十余州 武家屋敷紀行

~隔月で第3土曜日に更新~

vol.80 【陸奥国 盛岡藩】南部家中の武家屋敷 

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原敬生家】岩手県盛岡市本宮4-38-25
 https://www.mfca.jp/harakei/
【花巻同心屋敷】同花巻市桜町4-83-5
 https://www.kanko-hanamaki.ne.jp/spot/article.php?p=169

 

 昨年7月、緊急事態宣言解除の安堵感と、旅を促す世の雰囲気の中、早めの夏休みで盛岡へ。すいている平日に、すいている時間の列車で、会食を伴わない一人旅。目的とする武家屋敷も人が密集することはほとんどありませんが、とはいえ緊急事態宣言再発令の現在の状況では、もうしばらく次の旅行は控えようと思っています。

 さて、最初に訪れたのは原敬の生家。「平民宰相」と言われた原ですが、生まれは盛岡藩武家(分家独立して士籍を離脱)。祖父の原直記が嘉永3年(1850)に大改築を行ったという屋敷で、その6年後の安政3年(1856)に誕生した原敬は、15歳で上京するまでここで暮らしたそうです。樹木に囲まれ、苔の生えた藁ぶき屋根で、静かな山村のような雰囲気。パンフレットによれば祖父直記は家老職ですが、重役にしては随分質素な印象です。ただ、200坪もあった屋敷の大半は明治初期に取り壊されており、現存部分は建物奥側に位置した5分の1程度とのこと。武鑑には側用人として原直記の名があり、また盛岡藩についての書籍には家禄200石とありました。

 次に訪れたのは、盛岡から在来線で40分、花巻に残る同心屋敷。花巻城一国一城令後も盛岡城の支城として存続し、城代はじめ南部家臣団が城下に定住していますが、そのうち花巻同心組はかつては浅野長政の配下だった家筋です。豊臣秀吉奥州仕置で、浅野長政が当地で陣頭指揮を執り、その後も治安維持のために残した一隊が花巻同心組の由緒。茅葺屋根に簡素な板戸の玄関、あまり武家屋敷らしさはありませんが、同心とはいえ、盛岡藩成立以前からの古参衆。どんな暮らしぶりだったのか興味が湧きますが、残念ながら内部は非公開でした。

 盛岡旅行から早半年。また武家屋敷探訪の旅に出ることを心待ちにしていますが、今はコロナの早期終息を祈るばかりです。

(2020年7月訪問)

 

 

f:id:kan-emon1575:20200704094630j:plain原敬の生家(盛岡市指定有形文化財)。地味な玄関は明治以降のもので、かつては藩主を迎えるための御成座敷に接続していた部分です。

 

f:id:kan-emon1575:20200704094738j:plain手前に突き出した部分(写真右側)は大正期に増設した応接間ですが、その左手、丸窓のある部屋は、原直記の居間だったそうです。

 

f:id:kan-emon1575:20200704101345j:plain原直記の居間とされる一室。邸内に掲示されていた家系図には、先頭に三条大納言公綱(正親町三条家)。枝分かれした先には浅井長政の名もありました。

 

f:id:kan-emon1575:20200704120957j:plain花巻同心屋敷(花巻市指定有形文化財)。江戸末期の建築と推定され、安政期には大橋理平治(手前)、四戸民治(奥)が居住。

 

f:id:kan-emon1575:20200704120809j:plain大橋理平治宅。現地では昭和の居住者である「旧今川家」として紹介。

 

f:id:kan-emon1575:20200704121051j:plain四戸民治宅。現地では明治以降の居住者「旧平野家」。