六十余州 武家屋敷紀行

~隔月で第3土曜日に更新~

vol.19 【近江国 彦根藩】井伊家中の武家屋敷

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【庵原邸】庵原助右衛門(家老/5,000石)

【鈴木邸】鈴木権十郎(母衣役/300石)

【脇邸】脇伊織(家老/2,000石)

【池田邸】池田太右衛門(馬廻/180石)    

https://www.hikoneshi.com/sightseeing/spots/c/buildings

 

 前回の埋木舎からお城の南側をひと回りしてみると、彦根藩士の屋敷門をいくつか見ることができます。なかでも彦根城天守を背にした「旧西郷屋敷長屋門」は圧巻(上部写真/彦根市指定文化財)。梁間5m、桁行は44mにも及び、家老屋敷としての威厳を呈しています。平成4年(1992)から行われた解体修理で、寛保2年(1742)に西郷邸の隣家である庵原邸で建てられたものと判明して、明治に入ってから西郷邸跡地に移築されたと考えられているようです。 

  彦根藩士の履歴が書き継がれてきた『侍中由緒帳』が、彦根城博物館により活字版として出版されており、その記述で興味深かったのが鈴木家。幕末の当主鈴木権十郎重戚は、小姓として江戸屋敷に勤務していたとき、「過酒のうえ奥方御張紙内までも立入り」という酒の失敗をしてしまい、「重々不埒至極」として御役御免で謹慎処分。その2年後には、弓術の師匠に破門を申し出て、勝手に他の師匠に鞍替え。「師弟の礼譲もあいわきまえず不埒」と藩から「御叱り」を受けています。若気の至りかもしれませんが、公的な記録に残されしまうのは痛いところです。

 そんな彼も「その後、心入厚く文武出精致し、奇特(=感心)の事につき」と許され、職場復帰。後に重戚の養子となった鈴木権十郎重恭(貫一)は、江戸で洋学修行に励んだらしく、慶応4年(1868)にはアメリカへの留学を希望し、公費で100両が支給されたとの記述がありました。巻末の解説によると、帰国後は自宅を「彦根洋学校」として教育に従事し、後にはフランス公使館代理公使として活躍したとのことです。物語になりそうなエピソードのある御一家ですが、彼らが暮らした屋敷の遺構を改めて見てみると、なにか時代の息吹が感じられるような、そんな気もしました。

(2014年5月訪問) 

 

 

f:id:kan-emon1575:20140511165616j:plain鈴木権十郎父子が暮らした屋敷の長屋門彦根市指定文化財)。門に添えられた解説には「350石で蔵奉行であった」という程度の記述ですが、国際人として活躍した鈴木貫一の紹介があってもよいように思います。

 

f:id:kan-emon1575:20140511163454j:plain脇家の長屋。左端には取り壊されたような形跡があり、長屋門の一部分だったようです。内部は2戸分の住居となっており、2階建てくらいの高さはある大きな建物です。

 

 f:id:kan-emon1575:20140511160333j:plain先祖は伊賀忍者という池田家の長屋門彦根市指定文化財)。修理工事を経て平成23年(2011)から一般公開されています。