【居住者】中西五郎右衛門(尾張藩大坂天満屋敷奉行/200石)
平成13年(2001)からもりぐち歴史館として一般公開されている中西邸。「守口市に残る貴重な武家屋敷」という触れ込みで、「武家屋敷が農村地域にあり現存していることは稀」ともPRされていますが、前回の北田邸と同様、実態的には広大な小作地を擁する豪農屋敷だったようです。
徳川家康の側室が中西家当主の妻の姉、生まれた子が尾張藩の藩祖徳川義直ということで、中西家は尾張藩と縁のある家柄ですが、主従の関係となったのは18世紀半ば頃。農民の立場から尾張藩士に取り立てられ、知行200石の大坂天満屋敷奉行として廻米処理や資金調達を一任されます。このため当主は天満屋敷に住むようになり、幕末には尾張に移っているので、この中西邸はあくまで小作地経営者の家として引き継がれていったのではないかと思います。
それにしても、上級武家を思わせる立派な屋敷の佇まい。とても農家には見えません。現在の主屋は寛政5年(1793)に再建されたものですが、ちょうど天満屋敷奉行として活躍を始めた時代です。将軍家一門の家中となった喜びや誇りを、建物に表現したかったのかもしれません。
(2013年11月訪問)
200石クラスの武家屋敷として考えてみても、この表玄関や安永5年(1776)建築の大門(最上部の写真)等は相応以上に立派。やはり豪農としての経済力を象徴するものと見るべきかと思います。
農村にあっては存在感を際立たせていたと思われる中西邸。江戸時代のガイドブックとも言うべき河内国の「名所図会」にも、守口の中西家の記述が見られます。
部屋数もかなり多いです。中西家については『中西家文化財目録』(守口市教育委員会)の解説や『尾張藩社会の総合研究』第三篇所収の「尾張藩と中西家」という論考が参考になります。