【居住者】北田好剛(旗本畠山氏の代官)
【所在地】大阪府交野市私部1-25-5
【関連サイト】http://www.city.katano.osaka.jp/docs/2013062800011/
桁行55.8メートルにも及ぶ2階建ての巨大な長屋門。大藩の家老屋敷か、はたまた大名の江戸屋敷にも見えてしまいそうですが、実は旗本に仕える代官の邸宅。もしかすると、主人の畠山邸(3千石)よりも立派だったかもしれません。現在もご子孫のお住まいですが、年4回(春と秋に2日ずつ)一般公開されており、市職員の方に案内していただきながら内部を見学してきました。
主屋も立派なものですが、屋根は銅版で覆われていて、余計に大きく見えるようです。もともとの茅葺が18世紀初頭に瓦葺になっており、茅葺仕様の建物には重量的に負担となっていたらしく、昭和63年(1988)の修理工事で再び茅葺に戻したとのこと。この時に銅版で覆ったのは、雨ざらしで虫害が発生するのを防ぐためだったそうです。文化財を維持するための工夫が凝らされているとも言えそうですが、個人的には往時の姿のままを見てみたいという気もしました。
北田家の先祖は、伝わるところによれば、南北朝時代の南朝の武将北畠顕家。足利尊氏率いる北朝軍に敗れた後、北畠姓を憚って「畠」から「白」の字を抜いた北田姓に改め、この地に土着したとのことです。江戸時代には、旗本畠山氏との関係においては苗字帯刀を許された一家来ですが、本業は庄屋で由緒ある地元の名家。実態的には豪農屋敷ということになりますが、武士の威風を感じさせるような立派なお屋敷でした。
(2013年11月訪問)
大きな屋根の主屋。茅葺は銅版で覆われています。右手の「表之間」は式台玄関のようになっていますが、左手の瓦葺屋根の部分がオフィシャルな玄関だったようです。
主屋の軒下から茅葺屋根の一部が見えます。「表之間」の奥には「勘定場」と「女中部屋」が続きますが、写真より手前は土間になっています。
天保14年(1843)建築と推定される大きな長屋門。物見格子の窓にも威厳を感じます。
長屋門には「男部屋」(写真の部分)をはじめ畳の部屋が3室ある他は、米蔵、炭小屋、芝小屋、藁小屋等になっていて(2階部分も物置)、本来の武家屋敷とは異なる豪農屋敷らしさも見せています。
裏門近くから、乾蔵(手前)、北蔵(奥)を望む。取り囲む土塀を見るだけでも4千平米にも及ぶ屋敷の広さを実感できます。