【居住者】金藤作右衛門(祐筆/7石3人扶持)他
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天保13年(1842)の棟札が残されるこの建物は、「足軽長屋」として観光スポットになっていますが、藩政時代は「清水谷長屋」と呼ばれていたらしく、住人も祐筆、御座敷番、御料理人など様々だったようです。いずれも家禄は5~7石3人扶持。新発田藩では下士クラスの人たちで、住居としてはかなりつつましい印象を受けます。
長屋には8世帯の住居があり、公開されている角部屋のお宅は、8畳間、4畳間、板の間、炊事場。今風に言えば「3K」の間取りかもしれませんが、外に開けているのは玄関と裏口の他は小さな窓が表と裏にひとつずつだけなので、部屋の中は薄暗く風通しも今ひとつな感じがします。窓が小さいのは向かいの殿様のお屋敷(清水園)に遠慮したとする見方もあるようです。
昭和47年(1972)の修復時の工事報告書(『重要文化財旧新発田藩足軽長屋修理工事報告書』)には、工事の概要はもとより建物の来歴などについても詳しい説明があって、とても参考になります。修復前の写真も掲載されていますが、明治以降の住人が改造して大きな窓になっていました。まさに殿様の時代の終焉を象徴しているかのようです。
(2012年11月訪問)
長屋の表口。明治以降に改造されていた窓は、旧藩時代の小さな窓に原状復帰。
8世帯の各室は、それぞれ若干の違いはあるものの、いずれも「3K」のようです。
裏口。トイレは裏に別棟で建っていたそうです。