【居住者】青柳藤右衛門(境目山役/70石)
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芦名家に従って角館に入った青柳家は、芦名家が断絶した後も佐竹北家(秋田藩佐竹家の一族)の組下給人として代々角館に居住し、この屋敷で明治を迎えています。他の武家屋敷は早くも雪対策で建物が板で覆われてしまっていましたが、青柳邸はありのままの姿を見ることができました。敷地は3千坪とかなり広いのですが、展示されていた藩政期の町割図には「表口拾三間 裏え拾九間」とあり、 当時は250坪程度でしょうか。万延元年(1860)建築の門構えは薬医門、安永元年(1772)建築の母屋は屋根に破風も施され、なかなか趣があります。
角館は「みちのくの小京都」と言われますが、芦名家に代わって所預りとして角館入りした佐竹北家(3,600石)の当主、佐竹義隣が京都の公家の家からの養子であったことが関係しているようです。青柳邸のある武家屋敷街は、通りの両端に黒で統一された板塀と秋色に染まった大樹が続き、どこか雅な感じがします。しかし一方で、その通りは道幅の広さも印象的です。偶然にも前日の夜に放送された「城下町へ行こう!」(BS朝日)は角館特集で、伊達政宗に敗れて実家の佐竹家で1万石程度を世話される身になり下がった芦名義広が、かつての大大名への復活を期して、それにふさわしい町づくりをしたのではないかと解説していました。義広の死後、子と孫も早くに亡くなり、名門芦名家は絶家となってしまいますが、今も残る堂々とした道筋には、武士の意地が見て取れるような気もしました。
(2012年11月訪問)
表玄関
表玄関には居間のような三畳間。
表玄関左手に位置する脇玄関。
建物内部
縁側は雪国ならではの「土縁」。板敷と雨戸の間に土間のようなスペースがあります。
黒板塀の続く武家屋敷通り