六十余州 武家屋敷紀行

~隔月で第3土曜日に更新~

vol.99 【伊勢国】御城番屋敷

【居住者】紀州藩士(松坂御城番/40石)
【所在地】三重県松阪市殿町1385
文化財指定】国指定重要文化財
【関連サイト】https://www.city.matsusaka.mie.jp/site/kanko/gojyobanyashiki.html

 

 亀山、松阪、伊賀上野名張と、三重県各地の武家屋敷を見てきました。一泊した松阪にある武家屋敷が、この御城番屋敷。松阪(江戸時代の表記は松坂)は三井家発祥の地としても有名な商人の町ですが、紀州藩の飛び地でもあって松坂城代が統治にあたり、その配下にあったのが御城番です。両脇に整然と続く生垣に沿って長大な長屋建築が2棟残されています。松阪には中学生の時に城めぐりで来たことがあるのですが、当時は気付かず素通りでした。

 長屋は松坂城の三の丸に位置し、東側が10戸、西側が9戸(かつては10戸)。平成22年(2010)の修復工事を経て1戸が一般公開されています(他は現在も住宅で利用)。40石取りの紀州藩士が暮らした各戸の間取りは、間口が5間(9m)の幅で8畳間2つ、6畳間2つに3畳の角屋と土間。つつましい生活が窺えますが、この御城番20家、実はかつては200石の歴とした知行取。幕末の頃に、藩の方針に対して抗議の脱藩を決行したつわものたちなのです。

 彼らは「横須賀党」と呼ばれた戦国時代からの徳川直臣で、紀州藩の成立後は附家老となった田辺城主安藤家の与力に。代々紀州藩士で、「田辺与力」と称した由緒ある立場にありましたが、安政2年(1855)になって突然、安藤家直属の家来に編入される通達が示されます。陪臣身分になりさがることは、古参の徳川直臣としての誇りが許さず脱藩。後に様々な執り成しもあって、微禄となりながらも、この地で紀州藩士として帰参を果たしたのです。長屋といえども、武骨者の意地を感じさせる、そんな武家屋敷でした。

(2024年2月訪問)

 

 

簡素ながらも式台のついた表玄関。右手に土間へ続く脇玄関、左手に縁側を構えます。

 

邸内は決して広いとは言えませんが、意地を通した彼らには何か共感がわきます。

 

左手は土間。天井が吹き抜けになっています。

 

建物の裏手。右手は3畳の角屋。

 

2棟の長屋沿いの生垣に挟まれた小径は、なかなか趣があります。正面は松坂城

 

松坂城址からの眺望。正面に御城番屋敷。遠い昔に来た時も、同じアングルで1枚撮っていましたが、記憶は覚束ないです。

 

松坂城址。建物は残っていませんが、石垣はなかなか圧巻でした。